※三国時代から封建制を見る
280年、晋朝の王濬が呉国を征服したことによって、三国時代は終止符を打った。当時、中国の人口は、すでに東漢の3千万から6百万になってしまった。東漢の洛陽の人口は興隆の時に、6百万も超えていた事実は、三国時代の悲惨さを物語った。しかし、この平和は、つかの間だった。10年後、291年、「八王の乱」が勃発し、これをきっかけとして、万里長城の内外の民族は中原に侵入し、前後に「五胡十六国」を樹立した。建業の晋の王子は、すばやく皇帝を自称して、晋の王朝を維持し続いた。けれども、この政権の勢力はすでに長江の北の地域を制御することができなくなった。時はいわゆる「南北朝」の時代に突入した。あれから、618年唐帝国が樹立したまで、3世紀以上の間に、中国は依然として三国時代のように、戦乱が絶えずに続けていた。もとより、三国時代は中国にとって、3度目の群雄割拠の時代であった。一番目は、楚漢時代であり、2番目は王莽の新朝つまり、西漢から東漢に変わる時代。このまえの割拠には、例えば春秋戦国、すべてが封建制度の貴族紛争であった。平民である軍閥による戦乱は、当然、貴族による戦争より、激烈なものであった。なぜなら、「兵民合一」だから。貴族時代、中国は「士」、西欧は「騎士」、日本は「侍」が戦争の単位として、戦争を行った。しかし、群雄割拠時代ならば、健康な男子が全部戦闘の単位であるため、戦争の規模や非情さは言うまでもなく、膨大しつつあった。したがって、三国時代の戦争は実に、近代の「総力戦」のようなものであった。
そもそも、封建制を結束し、郡県制を創立したのは秦始皇帝であった。漢王朝の初期、劉邦は、秦の失敗を教訓として、封建制を復活した。しかし、「七国の乱」が行うために、封建制は廃止した。そして、新朝や三国のような軍閥混乱は、二度も発生した。晋の皇帝はそのような戦争を恐れるために、自分の子孫を領地の王としての「封建制」を回復した。皮肉にも、結局、その制度は、それぞれの王たちが内争を行うことを導き、晋王朝の寿命を加速に短縮した。そして、魏晋南北朝は終わった後、隋や唐は「八王の乱」のようなことを恐れ、「封建制」を廃止した。地方の長官は科挙によって選抜された知識人を任せ、中央は擬似貴族という「世族」が権力を握った。しかし、隋は隋唐割拠のようなこと、唐は「安史の乱」のようなことが勃発してしまった。ついに、「五代十国」という群雄割拠時代が再び到来した。それゆえ、宋王朝は、封建制や地方軍隊制ともに否定し、「強幹弱枝」という中央軍事集権を実施した。結局、遼(契丹族)、金(女真族)及び元(蒙古族)の相継ぎの侵略に対して、宋王朝の軍事制度が反応できなくなり、宋は滅亡した。明の朱元璋は元を駆逐した後、封建制を採用すべきと思って、諸子に領土を与えた。そして、「靖難の役」が勃発し、明恵帝は明成祖の武力の反乱によって失脚された。当然、その後、封建制は廃棄された。かくして、中国において、封建制ないし、地方制の採用はつねに王朝の重要な課題となった。にもかかわらず、三国時代はすでに、近代の総力戦によって損失の大きさを証明していた。(↑)
※関羽に関する「対聯」
もしもっと注意を払ったら、アジア三国志同盟のHPにおいて、各々のコーナー(巻)のタイトルの下に、漢字ばかりのセンテンスを発見するだろう。あのセンテンスの正式名称は聯、対聯、対句などである。ちなみに、当サイトの聯は主に詩、詞から取り上げ、若干の聯だけがもとより聯として存在した。HPが試運転のはじめの時、KHのyaskyさんは、それぞれの聯を日本語に翻訳すると提案した。しかし、当初、HPの整体性かつ拙者の日本語の能力を考慮したうえ、採用されなかった。けれども、今回を機にとして、関羽の対聯を紹介してみよう。ちなみに、これらの聯の用途は、関帝廟(関羽の寺)の門聯の飾りである。
1.劉為兄、張為弟、兄弟間分君分臣、異姓結成親骨肉。(劉備が兄になり、張飛が弟になり、兄弟の間に君臣を区別し、苗字が異なる三人は実の兄弟に結成した。)
呉是仇、魏是恨、仇恨中有仁有義、単刀独輔漢江山。(呉は仇、魏は恨、深い恨みの中に仁義あり、一人で漢の国家を輔佐した。)
2.秉燭豈避嫌、此夜一心惟有漢。(夜の時、蝋燭を使うのは、嫌疑を避けるではなく、本当のはあの夜、心の中に漢の復興だけが考えていた。解説:ここは、関羽と劉備の妻と一緒に逃亡することを指した。)
華容非報徳、当時双目已無曹。(華容道に曹操を逃げさせるのは、恩返しではなく、本当のは当時、目の中にすでに曹操という人がいなくて、かわいそうな人しかいない。)
3.此呉地也、不為周郎立廟。(ここは昔の呉の領土だけど、この寺は周瑜を崇めるではなかった。解説:この廟の所在地は富陽県、孫権家族の旧領土。)
今帝号矣、何須曹氏封侯。(関羽は今すでに皇帝になり、曹操から侯爵の称号をもらう必要がなかった。解説:関帝、つまり関羽皇帝を指す。)(↑)
※仮想宇宙ゲームと三国志の合体
皆さん、以下のようなゲームを想像したことがありますか?つまり、銀河英雄伝説や銀河戦国群雄伝ライのようなゲームシステムを使って、三国志の登場人物を導入して、無数の艦隊を指揮して、壮大なる戦争が行われ、無限大の宇宙を叱咤するゲームである。しばしば、このようなゲームのイメージは拙者の頭に浮かぶ。どうりで今の銀英伝やライなどのゲームは、すでに宇宙SLGゲームに定着した、なぜ三国志の宇宙ゲームが必要?簡単に言えば、現在の歴史や仮想SLGゲームは主に二つの種類がある。一つは、武将がゲームのセールスポイント、例えば、三国志、信長、銀英伝、あるいはライなどである。もう一つは、将棋みたいなものであり、おのおのの軍隊が一つ一つの駒しか見えないし、軍隊のリーダーに対する愛着がほとんどない、例えば、STARCRAFTや大戦略などである。艦隊ゲームと言えば、提督の決断シリーズは、武将も艦隊も条件に合うだろう?だが、日米だけで国数は少ないし、艦隊の作る時間も遅いし、「ハワイ奇襲の前夜」のシナリオで、大和が完成する前に、アメリカの艦隊はすでに海の泡になってしまった。とにかく、艦隊戦の少なさは玉に傷だろう。銀英伝の場合には、登場の人物はだいたい20人しか覚えないし、選択できる国家も二つしかないし、艦隊戦の場面はとても精彩かつ多いけど、何か足りない感じをする。スーパーファミコンの銀河戦国群雄伝ライをやったこともある。欠点としては、やはり設定自体に武将の数は制限された。旗艦かつ艦隊の形の差異、一騎討などのは魅力けど、軍師の役割が出ないのは漫画との精神に違背したと言えるだろう。ちなみに、あのゲームで、怖いことを遭遇した。智の飛竜は最後にレベル32になって、拙者の武将はすべてレベル20前後で、としても敵われなかった。それから、一回もあのゲームを再びやる気がないことは言うまでもない。(T−T)さて、以下の場面を想像してください。関羽は旗艦の赤兎馬を座し、浩瀚な宇宙に戦艦群を導き、流星海において太史慈の航空母艦と衝突し、あるいは虎牢要塞で華雄の巡洋艦をやぶれる・・・・・・。やはり海は男のロマンだろう。^^艦隊の種類だけじゃなくて、武将も面識の顔が揃われ、アイテムもいろいろあり、星の名前も元の地名を継承しえるなどなどは、銀河三国志ゲームのメリットだろう。いつか、このゲームを製作あるいはプレーしたいな。^^(1999年9月28日)(↑)
※漢民族の関羽信仰
もし台湾や中国に行ったことあれば、たぶん関羽が赤い顔を発覚しただろう。そう、漢民族圏に、関羽の顔は赤であり、張飛のは黒であり、劉備のは白である。うわさによれば、コーエー会社も漢民族圏に三国志ゲームを発売する時、関羽の顔を赤に染めることを検討してる。さて、顔が赤いの発見以外に、関羽は神として崇められるも印象深いだろう。周知のように、関羽の出来事は、華雄、文醜そして顔良との一騎討の勝ち、曹操の登用に応じず、劉備の妻達とのクリアな関係、オペの時に麻酔薬を使わぬうえ春秋を読み、死ぬまでも劉備との誓約を忘れず、首だけ曹操を呪ったなどなどである。その忠義や漢賊不両立の堅持は、儒家伝統的な価値にふさわしいために、民間に有名になった。たとえ彼は敗戦をくって死亡に至ったでも、彼の怨念はいつか勝利へ導くと思われる。それゆえ、彼を戦争の武神として信仰する。宋の時代、長期的な国力の不振、外民族(遼、金、蒙古)の相継ぎの侵略のうえ、関羽の神通への崇拝はいっそうに高まっていた。皇帝からあげる官位はだんだんと登り、ついに大帝までなった。かくして、民間に彼を関帝、関公、武聖などと呼ぶ。とりわけ、武聖の呼び方は、実に孔子の文聖(至聖先師)と同じな地位に並ぶ。とくに、ヤクザ、秘密結社、危険な仕事の集団などは、関羽を自分の業界の保護神と信じる。また、近年、関羽は、「招き猫」のように商売の神として、あるいは孔子と同じように学問の神として信仰することは言うまでもなく。関羽の寺に、彼の傍の二人は関平と周倉である。ちなみに、拙者は、あまり関羽の傲慢な性格に気に入れない。なにしろ、この性格は彼の死因だけではなく、蜀の敗亡の原因とも言えるだろう。(1999年9月23日)(↑)
※三国志と三国演義との差別(前者は3文字、後者は4文字^^)
おそらく、三国志と三国演義を同一視する人はいるだろう。ところが、漢民族(註1)にとって、この二冊の本はまるで違いものである。要するに、視点の異なりである。三国志という本は、晋(?)の陳寿によって完成された公的な史書である。そのため、自然的に晋つまり魏の立場から、歴史を書いた。だが、民間の感情はあくまでも敗者に同情して、また、劉備の血縁は正統の漢の後代を思い、なかなか魏を基づく三国志に共鳴しにくい。反対に、三国艶義(ヒット出版社)じゃなくて、三国演義は明の羅貫中が書いた歴史小説である。と言っても、実は三国時代以来、民間の伝説、芝居、戯曲及び迷信を加えて、歴史を工夫して、集大成したものも言えるだろう。羅貫中は誰か。彼は元末明初のときに、モンゴル(蒙古)反抗義軍の一つに参加して、軍師の職務を勤めた。しかし、たとえ後に三国演義のような凄い軍事小説を書ける彼でも、計略が不発し、明の朱元璋の軍隊に敗れた。その後、天下統一という仕事がなくなる彼は、三国演義という小説を書いて、歴史に名を残った。かくして、清の金聖歎という人は、三国演義と紅楼夢、水滸伝、聊斎誌異を加えて、「四大奇書」と呼んだ。余談だが、三国演義は実に中国の運命を変わったことがあります。すなわち清(女真族)の中国占領である。清の開国皇帝と言える皇太極は、実は三国演義から兵法や計略を学ぶことによって、羅貫中の野望をやぶれる明を消滅した。これはもう一つの長い話だから、とりあえず別稿に移る。(1999年9月23日)(↑)
(註1)漢民族といえば、つまり中華人民共和国、台湾、シンガポールなどを含む文化的中国の代用辞である。拙者はあくまでも台湾独立派だから、中国という言葉を使って、台湾などを含む地域と総括することはしたくない。この後の文章に出現した漢民族は主に文化的中国と同じの意味を指し、ご了承してください。
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